Life as Kamino Rui

MtFの私「神野留衣」と、私の現実世界での姿「僕」の二人の日常生活

いつも思考の片隅に存在するコト、答えの出ないコト

こんばんは。神野留衣です。

本題に入るまえに、一つ教訓。

「洗濯を始めたら、干すまで寝るな」

…あたりまえのことですよね。
私の家では、洗濯機で脱水までやって、それから浴室乾燥機を利用して、干すようにしているので、洗濯機のスイッチを入れたら後は放置、では済まされないのです。
ということで、そのあと寝てしまった私は、次の日の朝、失敗したと気付いたわけです。
結局、二度手間になりました。
皆さんもお気をつけください(笑)。

 

そして、もうひとつ。

「こんばんわ」でなく、「こんばんは」

今、ついつい「こんばんわ」と冒頭に書きそうになりましたが、ふと引っかかったので、インターネットで検索して、間違いであるという記述を目にしたので、さらに国語辞典をひきました。

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こんばん-は
夜、人に会ったり訪問したりするときのあいさつの語。
…助詞の意識が残るとして「は」と書く決まりだが、近年「わ」が力を増してきた。
(明鏡国語辞典 初版第三刷より)
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今確かめたところ、昨日の日記に「こんばんわ」と書いてしまっていたようです。
しかし、上にも記されているとおり、近年では「こんばんわ」と書く人が大部分でしょう。

なんだか、中学校の国語の先生が言っていたことを思い出します。
「言葉というのは、時代によって変化していくものだ。」
言葉はつかわれてこそ初めて、言葉として成立するということでしょう。
だから、ルールに縛られるよりも、広く受け入れられたものが、新たな言葉となる。
いったいどれだけの人が、そのことを意識して言葉をつかっているのでしょうね…。

 

さて、前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。

いつも思考の片隅に存在するコト…それは当然、私のことです。
結局、この世界に存在しているのは、今はまだ「僕」だけです。
「私」でいられる時間は、皆無に等しい。
唯一、「私」でいられるのは、すでに打ち明けた人々しかいない空間だけ。
それと…このブログかな。でも、このブログはどうなんだろう。二人で書いているというイメージ。

そもそも、こうやって二人(実は三人だが詳細は省略)に分けて考えること自体、間違っているのかな、と思うこともあります。
それ以前に、こうやってカタい文章で客観的に書いている自分って、何者なのかな、とも。

それはさておき、こうやって表に出られない私は、しょうがないので、今の「僕」の世界に、「私」を合成して、私でいることを「想像」することがよくあります。

たとえば、昨日の日記にも書きましたが、私を知る同級生と一緒に学校に行くときのこと。
周りの人にどう思われているかなんて、考えたくない。
私でいれば、だれも変になんか思わないのに。
そう考えて、目を閉じる。

目を開く。
自分のあらゆる感覚を、私としてのシミュレーション結果に置き換える。
そうすれば、少しの間、誰にもわからないけれど、私でいるふりができる。

でも、一瞬でも「僕」の姿が目に入ったら、その魔法は解けてしまう。
うなだれた時に見える、制服のボタンだったり。
ガラスに映る自分の姿だったり。
電車がホームに入ってくると、そこには予測と違う人影が写っている。
でもそれが、今の自分。

…ちょっとわかりにくいですね。というより、こんな風に考えていると、周囲の人々に知られてしまったらどうしようもないのですが。

 

ふと、こう考えることがあります。

男子だって女子だって、自分のやりたいことをやりたいようにやればいいだけなんだから、別に「変わる」必要性なんてないんじゃないの?
自分の身体が男子だってことは現実だから、別に我慢できないというわけではないし。

…こんなこと言ったら、「お前は全然心が女子じゃない」って言われそうですけどね。
でも…結局そういうことなんじゃないかな、じゃあなんで自分こんなことで悩んでいるんだろう、と思ってしまう。

それでも、思考の片隅にいつも存在する、昔からずっと。
それは結局、今の科学ではわからない、だけど何らかの論理的な仕組みによって、私は女子だと決定されているのだと思う。
そして、そのほうが自然なんだと私は信じてる。

でも、そんな考えを受け入れてくれるような社会では、今は無い。

それでも、私は私だから。

もっと「私」を周囲の人に伝えなきゃ…。
そして私に戻れたらいいな…。

 

長くなりました。
では、おやすみなさい。