Life as Kamino Rui

MtFの私「神野留衣」と、私の現実世界での姿「僕」の二人の日常生活

これから先のコト

最初に、少し私のお気に入りの曲の紹介を。

と言っても、この曲を知ったのはつい数日前なんですけどね(笑)。
どこが好きかと言うと、とにかく歌詞の意味が今の私にぴったりのような気がします。

なぜ隠してしまうのですか 本当は聞いてほしいのですか
絶対に笑ったりしないから 話してみませんか

この曲は、現在海外にいる私の友人とSkypeで会話をしている時に、教えてもらったものです。
元はVOCALOIDに歌わせた曲のようですが、やっぱり私は人が歌っているものの方が、伝わってくるものが違うと思います。
だからといって、VOCALOIDを否定するわけでは全然ありません…なぜなら、歌唱力がない人であっても、ある程度の曲なら作ることができる…そう、歌の本当の要素というのは、歌声というよりは歌詞ではないかと、私は思います。あと、メロディーも含めて。

これは、人間が道具を使い始めた時からきっと同じことを考えていたと思いますが、道具はあくまでも自らの能力の届かない仕事をさせるためにあるものであるということを、忘れてはいけないと思います。
だからといって、道具を使用して得られた作品が本物ではない、とは言えないと思います。
道具を使用して、例えば今回のように、歌は合成音声に歌わせる、というのは、あくまでもその歌詞の意味を、多くの人に広く伝わるように、人間の理解しやすい形に落とし込んでいるということなのではないかと思います。
たとえいかなる手法においても、他人に完璧に自分の思いを伝えることは、それがどのように相手に受け取られているかを確認する手段がない以上、不可能であると言わざるを得ません。
それでも、伝えやすい形、というものに変換することで、自分の考えを広く伝えることができる…。

なんだか、「私」のことを周囲に伝えることも、同じことのような気がしますね。

さて、ここまで考えると、ヒトの一個人としての価値というのは、突き詰めて考えると、その人の思考のロジックだけということになるでしょう。
逆に、その思考のロジックを完全に再現することができれば、その再現したものは、再現された人と同一であると考えることもできるでしょう。

という話は、先に紹介した、森博嗣氏の著作で取り上げられていたことですが。

つまり、究極に「道具」が進化して、私たちが身体的能力に左右されずに、思考のロジックだけで「個人」として成立する日が、いつの日かやってくるのではないかと私は思います。

でも、そうなったときに「性同一性障害」というのは、一体どうなるのでしょう。

考えてみると、不思議ですよね…。
たとえ思考だけの個人になっても、今の世界で言われている「性別」という概念は、未だに存在しているのでしょうか?

そしてそう考えると、今の私が望んでいる、「私」として生活すること、女子として学校に通うこと…そういったことはすべて、見掛け上のことであって、意味をなさないことなのでしょうか?

私は、今は、そうではないと思います。
なぜなら、今はまだ、身体や物理的な存在としての個人が、思考のロジックとしての個人よりも、大きなウェイトを占めているからです。
たとえ私が心の中では、思考のロジックだけで個人というのが定まると思っていたとしても、周囲の人々はそうは考えてくれない。
男子の制服を着ていたら、男子。
女子の制服を着ていたら、女子。
身体が男子だったら、男子。
身体が女子だったら、女子。

そんな世界の中で私でいるためには、そういう見掛け上のこともすべて変えることが、私として生きるための最短の手段だと思います。
そう、今は、まだ…。

 

なんか、何かの論文みたいになってしまいましたね…こういうカタい説明的文章を書くの、好きなんです。
でも、文章だけじゃ伝えられないこと。それを伝えられるのが、芸術、Artだと思います。

文章も、もしかすると芸術の一種かもしれません。
でも、文章なんて有限個数の文字の集合で示された、ただの記号なのです。
物事は比較的正確に伝わるけれど、その背景を説明するには容量がかかりすぎる。

歌は、どうでしょう。
歌…現代で言う「歌」だけでなく、「和歌(やまとうた)」などもどうでしょうか。

やまとうたは ひとのこころを種として よろずのことのは(言の葉=言葉)とぞなれりける
古今和歌集 仮名序 より)

言葉にメロディーを、抑揚を加えたもの。それが、うた。

たったこれだけの改良で、人類が伝えられる感情の幅はとても広くなったと思います。
…ああ、こんなところで中学校の国語の授業が役に立つ。
きっと知っている人が見たら、私が誰なのかすぐにわかるだろうなぁ。

そうやって、思っていることを伝えるためには、膨大に付け加えられた情報を保存しなければいけません。
それを保存し、広めるための「道具」がコンピューターであり、インターネットなどの仕組みではないでしょうか。
当然、デジタルデータは不完全です。データ量を削減するため、そして何より、データ化する段階で、情報はデジタル(Digital)=Digit(桁)として表現できるように、細分化され、分解能以下のものは切り捨てられます。

そして今の技術では、ヒトの分解能がコンピューターのそれに勝っているために、どうしても本物とデジタルデータには差異が生じます。
しかし、これから先、コンピューターの分解能がヒトの分解能を越えたら、それは「現実」「本物」なのでしょうか?

それは…分かりません。
なぜなら、そうやって「現実」と「非現実」を区別する私たちの思考のロジックは、すべて解明されていないからです。

 

ああ…「これから先のコト」なんて、少しも書けていませんでしたね。
人類全体に論理をを拡張すれば、今の話も「これから先のコト」と言えるかもしれませんが。

とにかく、現実に今を生きている私にとって、理想論は追い求めるべき対象ではありますが、それにすがっては生きていけません。
私でいることは、どうしても今の社会の「流れ」に逆らうことになるでしょう。
それでも、私は諦めません。絶対に実現して見せます。
高校の間に、私として生活できるようにする。

だから…。

伝え続けます。みんなに。私を。