Life as Kamino Rui

MtFの私「神野留衣」と、私の現実世界での姿「僕」の二人の日常生活

目に見えるもの、見えないもの

 

お久しぶりです。神野留衣です。

突然ですが(いつも突然ですね)、絵を描いてみました。
こんな感じ…出てくる人物は、私、ということにしておいてください(笑)。
ちなみに着ているのは、高校の制服。

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 正直言って、私は絵が苦手です。特に人物の顔は、まったくもってダメなのです。
なので、下手だとか言われてもまあそれはしょうがないのですが(苦笑)、上手くはなりたいな、と思っていたりします。
だって…上手くかければ、もっと自分の想いを周囲に分かりやすく伝えられると思うから。

ということで、たまにこうやって「私」の絵を描いてみたりしているわけです。
コンピューターでペンタブレットを使って描いているから、いくらでもやり直しが利きますしね。
嫌になったら、ゴミ箱へポイ(笑)。

さてさて、こんなことをするよりも、さっさとこの大型連休の間に課された大量の宿題を片づけなければならないのですが…明日やります。
きっと終わりますよ、うん。(楽観的だな…大丈夫か?)
ある程度は進めてあるので、きっと大丈夫でしょう。
いや、終わらせます。たとえ終わらなくても(矛盾してるよ)。

最近日記を書いていなかったのは、書いても何も変わらないのではないか?といういつものマイナス思考があまりに強すぎて、睡眠不足+睡眠過多=昼夜逆転生活に突入していたからなのでした。
明後日は学校なのですが…大丈夫でしょうか。(大丈夫?)(多分。)

さて、やっとここで題名に触れるわけですが。
ヒトはどうしても、目に見えないものは信じられないようです。
たとえば、四次元という概念。
確実に存在はするのに、目には見えないから、理解できない人が多い。
当然、私も概念はわかっても、それ以上のことはできません。

…概念?

そう、ヒトが他の動物と違うこと。それは、概念をもつ、ということではないでしょうか。
当然、他の動物が概念を持たないという証明なんてできないですけれど、それはさておき。
ヒトは、直接理解できないものを、概念というものに定義づけて、考えようとします。
その定義とは、言葉であったり、数式であったり、図であったりするわけですが。
その定義付けの方法であったり、それを周囲へ伝達し、保存し遺すための手法を学ぶのが、勉強と呼ばれる行動だと思います。
まあこれから先は、大学に入ると、それを駆使して新たなことを発見することになるのでしょうが。それは研究という行動なのかな。

それはさておき、つまり、ヒトは目に見えないものは受け入れにくいのでしょう。
目に見えないもの…それは私。

母親にとって、それは目に見えないから、存在すらしないものとして扱われているような気がします。
それに、私という存在って、自分にも見えないんですよね。
どこにも、私の存在する物理的証拠がない。多分。
むしろ、否定する要素はたくさんある。それはすでに列挙した通り。

でも、なんでかな。どうしても、なにがあっても、自分は私なんです。
僕よりも、私でいたほうが、自分らしいと思える。
でも、その証拠はどこにもない…あるのは目に見えない感情と意識だけ。

その目に見えない「私」を、どうにかして実体化して、目に見えるようにするのが、「私になる」ということなのかな。

 

今日はちょっと文章が雑ですね。

 

でも、私になっても、僕として今まで生きてきたことは消えない。
それに、消したくない。
まあ結局、自分は私であり、僕であって、どちらにせよ、私は女子なんだ。

なんだか意味不明ですね。睡眠不足が効いてきたかな…?

 

結局、こうやって考えていると、そんなに悩む必要のないようなことのような気がしてくることがあります。
それは、変わらなくても我慢できるという意味ではなくて、変わるのなんて簡単だ、ということ。
だって、変わるまでもなく、私は私なんだから。
間違っているのはすべて自分の周囲。私を変える必要なんてない。
周囲を変えることは、簡単なような気が…気がするだけ。

それでも、現実は全然違う。
母親は、いつも喧嘩になると、私にこう言います。

「あんたは自分の願いをかなえてもらえることがあたりまえだとでも思ってるの?」

思っている…わけじゃない。思っていないけれど、あたりまえであってほしかったと思っている。
みんな何も言わなくたって、自分に合った服が着られて、学校の制服だってそうだし、さまざまな場面での扱いだって、全部そう。
なのに自分は、願ってもかなえてもらえないなんて。
他のものは何もいらないから、あたりまえが欲しいと思っていても、全然あたりまえになんかならない。

「あたりまえって何?誰にとってのあたりまえだよ。」

…そうか。母親にとってはあたりまえじゃないんだね。分かる。そうだもんね。
私はどうせ男子なんでしょう?母親にとって。
そうだもんね。物理的にそうだもんね。何もかもが私は男子だって証明してる。
でも…いやだって言ってるのに。あたりまえは違うんだって言ってるのに。
そりゃ、私の望む「あたりまえ」が、あたりまえじゃないのかもしれない。
私の外から見たら、そうなのかもしれない。
だけど、私にとってはあたりまえなのに。
でも、他の人から見てもあたりまえでなければ、ダメだって言われる。

 

あたりまえじゃなくてもいいや、と思うことがある。

特別だっていい、冷たい目で見られたっていいし、社会的に冷遇されたっていいよ。
だけど、それらの逆風に勝る痛みが、苦しみが、私でいられないことによって生じているというのに。
それだったら、変われた方が楽なのに。

だけど…楽になるのは私だけなのかな。
母親は苦しむのかな。
こんなに母親が受け入れてくれなくても、やっぱり考えてしまう。
でも…それじゃあ、どうすればいいの?
どちらかが死ぬまで待てばいいの?

 

 

こうやって、頭の中で、母親にまた話したらどうなるかをシミュレーションして、結果、話しても良い方向には進まない、むしろ悪い方向に進むと考えて、話せない。
話さなければ、何も変わらないことは十分に理解している。
だけど、話しても、何も変わらないどころか、一時的に悪くなるだけ。
どうしようかな。

次回の病院の時に、母親にも一緒に行ってもらって、先生に話してもらおうかな。

そうすれば、少しは変わるかな。

 

とりあえずは、毎日を生きなきゃ。
学校、行かなきゃ。私じゃないけれど。
行けば楽しいのだけれどね…少しだけ、行くの嫌だな、って思うことがある。
でも、学校のみんなは、分かってくれるから。
…そうか、学校のみんなにも話さなきゃ。
話せるかな…。

本当はもっといろいろ書きたいのですが…。
(いつも後で伝えられなかったことを思い出して、次回に書いている気がする。)
最後までこんな文章を読んでくださって、ありがとうございます。
さすがに眠いです。寝ます。おやすみなさい…