Life as Kamino Rui

MtFの私「神野留衣」と、私の現実世界での姿「僕」の二人の日常生活

「プリンセス・トヨトミ」を見て

こんばんは。神野留衣です。

今回は、つい先ほど、21:00から放送していた映画を見て思ったことを少し書きたいと思います。

プリンセス・トヨトミ-Wikipedia

映画を見ている中で、きっとこれは原作からは少し変更が加えられているのだろうと考えていたのですが、どうやらその予測は正しかったようです。

さて、あらすじはリンク先にあるので割愛しますが、なぜ私がこれを題材に日記を書こうと思ったのか。
それは…女の子になりたい男の子が作中で出てきたからです。
(当然、ここで言う男の子とか女の子というのは、身体的および戸籍上の定義として扱っています。だって、本当の意味では、その子は私と同じ、「女の子」でしょうけれど、それでは正確に内容を伝えられないですから。
当然、私だって自分の性別は?と聞かれたら、数秒間黙ってみて、言わなければ話が進みそうにないときとか、確実に書いていないとつき返されたり、わざわざ聞かれてしまいそうな書類には、身体の性別を書きますよ。
それは、しょうがないことですからね。ヒトはどうしても、定義しなきゃ生きていけない生き物だから。それに、私はきっと、身体的には男子だから。染色体検査とかをまだしていないので、確実なことは言えませんけれどね…と少しだけ、身体の性別についても希望を持ってみる私。)

それはさておき、私はこの映画を母親と一緒に見ていたわけなのですが、作中で

「あの子は女の子になりたい男の子」

であるという趣旨のセリフがあった時、母親がこう言いました。

「なんかこれ、どっかで聞いたような話だね。」

…。
どっかで?
そう、そんなことでしかないの?どうせわざとなんでしょうけれど。

と、少し怒りを覚えつつ、まったく無関心ではないんだなと一方で安心し、またもう一方で作中のその子がセーラー服を着ているのを、うらやましいなぁ、と思いつつ、一体どうやって入手したのだろう?と作品の合理性に疑問を持ったり。

なんだか、同時に思考が多方向に展開されていて、ごちゃごちゃに見えるかもしれませんが、実際私の頭の中ではそれぞれのことを同時に考えていました。

しばらく後に母親が

「いったいどうしたんだろうね、あのセーラー服」

と聞いてきて、なんだ、今更気付いたの、と思いつつ

「そんなこときちんと考えられてないんでしょ。」

と返した私。

少しは母親も、なにか考えてくれたのでしょうか。
考えてくれていても、結局人間なんて弱いから、こうやって嫌味っぽくしか伝えられないんでしょう。
そう理解はしているし、きっと考えてくれているのだろうと思うのですが、それだったら…少しは願いをかなえてよ、と思う私がいました。

 

そう、もう一つの話。

作中でその子は、父親から、代々「息子」に伝えられる、重大な秘密を話す場面があったのですが、その場面でその子が

「でも僕は…」

と、反論したそうにしていたのが、すごく共感できました。
そう…なんで自分が男として期待されなきゃいけないの?という疑問と、それをしていながらも話す父親。

結局終わりの方で父親は、

「自分に正直に生きることは、一番大変なことだ。それでもその苦しさを受けて立つのならば、自分の好きなように生きればいい。それでも、男であろうが女であろうが、王女を守ってほしい(重大な秘密の中身)」

と言っていて、この父親は分かってくれているんだな、と感じましたが。

 

そうそう、何を言いたいのかというと、私の父親のことです。
私の父親は、私が小学生の時に亡くなりました。
それでも、あまり悲しいとは感じなかった。
むしろ、ずっと心の中で考えていたのは、

「本当の私を伝えられなくてごめんなさい」

という想い。そして、それと反するようですが、

「死んでくれたおかげで、少しは誰かに打ち明けやすくなったのかもしれない」

と、少しうれしく思う気持ちでした。
なんだか、不謹慎ですね。ごめんなさい。

でも、なぜそんなことを考えていたのか。

父親というのは、一般的に息子に対して期待を抱いています。そう、男としての。
でも、私はその期待には応えられない。
むしろその期待を、裏切ることになる。

私の父親は、普通の人から見たら、すごいね、と言われるような職に就いていました。
そのおかげで、私もいくつか貴重な体験をしたことはありますが、それよりも、もし「私」のことを父親が知ったら、どう思うだろう、と考えていました。

当然、父親だって馬鹿じゃありません。だから、もしも受け入れてくれたとしたら、それは力強い後ろ盾になる。もし認めてくれたら、私は何に悩むまでもなく、すぐに私として生きられたかもしれません。

でも、もし受け入れられなかったら。
当然、そう考えていました。
もし拒絶されたら、私はきっと捨てられる。
徹底的に。

一か八か。そんな感じだったのです。
All or Nothing. 1か0か。

本当は、その可能性にかけてみるべきだったのかもしれないと、父親が死んだ今となっては、思うことがあります。
でも、そんなことを考えていたって何も始まらない。

結局、伝えられずに、父親という存在は消えてしまいました。

昨年は、同じようなことを、母方の祖父が亡くなった時に思いました。
最後の出棺の時に、周囲の親戚が

「ほら、最後のお別れだよ」

という中で、私はいつもの真顔で、いや、少し泣きそうになっていましたが、その涙のわけは、同じこと。
伝えられなかった。また。

よく他人は、私のように、「女の子になりたい」と考える人に対して、こう考えるのでしょう。

「そんなのは、思春期に思う戯言だ。」
「男としての重圧から逃げようとしてるだけじゃないのか?」
「そういう時期だからね…。」

でも…逃げているのは、あなたたちではないのですか?と言いたいです。

現実に、現実に私と同じことを考える人は世界中に大勢いる。
そして、だれもそれを面白半分で言っているわけじゃない。
ただ、みんなと同じように、自分を生きたいだけ。
当然の権利…なんていうと、余計に文句を言われるわけですが。

…そういえば、私の友人が、こんなことを言っていました。

「最近、世界にこういう「少し違う」人々が増えてきたのは、人類が進化しているからではないか?」

私は、この意見にあまり賛成できません。
だって、私はあくまでも、普通に、普通に生きられれば、良いと思うのに。
(本当は、前置きに少しだけ宗教的な話をされたから、科学的じゃない!って先入観ができてしまったからでしょうけれど。)

でも、言いたいことはわかる。

確かに、人類だけが進化しないなどということが起きるわけがない。
だから、これは進化の一環である可能性は十分にある。

それだとしたら。

私は、淘汰されてしまうのでしょうか。

社会の海に還るなんて嫌です。

 

その結論を知るために、私たちヒトは生き、科学を作り上げていくのでしょう。

では…その前に立ちはだかる中間考査の勉強もしなきゃいけませんね(笑)。

それでも、私は諦めずに、私でいられるように、頑張ります。
きっとみんなはわかってくれる。そう期待して。