Life as Kamino Rui

MtFの私「神野留衣」と、私の現実世界での姿「僕」の二人の日常生活

アスペルガー症候群

先日、再び病院だったのですが、その時に、「アスペルガー症候群」の疑いも(性同一性障害とは関係なく)ある、という話を先生から聞きました。

アスペルガー症候群 - Wikipedia

確かに、一通りインターネットなどで調べてみると、自分に当てはまる点がたくさんあるように思えます。
まあ、それはいいのですけれど…。

きっと先生が考えているのは、私が今「性同一性障害」だと思っていることが、「アスペルガー症候群」によって引き起こされているのか否か、ということだと思います。
しかし、そういわれると、どう答えればいいのか、困ります。
自分は、そんなことはないと思っていますが…。

それはさておき、今まで病院に行っても、本題にはあまり触れずに、学校での状況とか、勉強はしているかなど(今思えば、これらの質問は「アスペルガー症候群」を疑ってのことだったのだろう)を聞かれて、それで次回の予約を取って終了、ということで、さすがに何か本題のことについて(こうやって抽象的に言うと、「本題って何?」と先生に聞かれそうですが…)話そうと思って、少しだけ話を聞いてきました。

治療のことについて聞いてみたところ、先生曰く、
「高校という大切な時期に治療を始めるのは良くない。
今は、どうしても苦しくて学校に行けないような人のために、親の同意があれば、ホルモン治療等はできるようになっているけれど。」

私はそれを聞いて、論理的に納得はできたけれど、それじゃあ、自分は一体どうすればよいのだろう?と思ってしまいました。

確かに、高校生の時期というのは身体の成長において重要な部分を占めるのだから、副作用の大きい女性ホルモンなどを投与するのは危険だということはわかります。
でも、その時期を何もせずに放置しておくというのは、今以上に身体の男性化が進むというわけで、これは精神的にとても辛いです。しかも、不可逆的な変化ですし。
ちょうど、今日(いや、昨日かな)、学校で同学年の女子に、
「君ってもうちょっと腕が細いと思ってたけど、こうやって見ると、結構男らしいよね。」
と、言われて、はぁ…。と思っていたり。

自分はそもそも、昔(と言っても数年前)から、自分のこの問題について考えていた時に、「ヒトの価値はハードウエアで決まるのではなく、その内部のロジックに依るのが本質である」と考えて、将来の身体の変化に対して、比較的楽観的に考えていたのですが、実際に変化が始まってみると、そう簡単には耐えられないようなものであることがわかりました。
今だって、同じことは思っています。
でも、「私」という存在を多くの人に受け入れてもらうためには、身体の面も、私であった方が、振舞いやすい(それは、自分が、という意味。他人から見られてどうこうというよりも)。
いや、多くの人に受け入れてもらう必要なんてない…そう思えるだけの強い心を、今は持てそうにありません。

そう、鶏が先か、卵が先か、のように。(多分生物学的には卵が先だけれど。なぜなら、鶏という種が生まれたのは、交配段階における遺伝子の変化だから、卵の中で起こるはずであるから。)

ただ、そんなことばかり考えていても始まらない、というのはよくわかっています。
毎日、自分のことを考えて、結局変われないのかな、とか思ってしまうと、何もかもやりたくなくなってしまう、無理にやろうにも、まったく進まない、というか、頭が痛い、お腹が痛い。
でも結局、それをどうにかして乗り越えて、毎日周囲の人々と同じくらいには頑張らないと、高校生活自体が続かなくなってしまいます。

ここで、先生の話の二文目について入るのですが。
「辛くて学校に行けない」のであれば、治療をしてもらえるというのは、何かおかしいのではないか、ということです。
いや、おかしくないのかもしれない。だって、私は我慢できるのだから。
でも、我慢できるのなら、何も治療をしないで、このままどんどん望まない方向へ身体が進んでいくのを指をくわえて見ていろと言うのでしょうか。

先生のこの言葉を聞く前からも何度か、学校を休めば、何か学校や親はしてくれるのだろうか、と考えたことがあります。
実際、学校に行きたくないな、と感じたことは、何度もあります。
それでも、私はこのことについて理由を付けて休んだことはありません。
だって、休んだら、見捨てられるだけだと思うから。
それは、今よりも状況が悪化することを意味します。

それ以前に、私は学校という場所が大好きだし、母親よりも同級の友人の方がよく分かってくれている気がします。当然、打ち明けた人はもとより、打ち明けていない人でも、少し勘付いているのか、何となく理解してくれているような気がします。
それに、私の学校は、みんないい意味で他人を気にしない、むしろ変であることが普通であるという考えの学校なので(しかも、入学してすぐに言われたのは「この学校は、倫理と道徳と法律に反しない限り、なんでもして良い」ということ)、よく言われるようないじめとか、そういったことはありませんでした。
いや、いじめられないように私が気を遣っているのか、はたまた私が「性同一性障害」じゃないから、そんなことも起きないと言われてしまうのだろうか…。

なぜ、大人はそうやってすぐに他人の考えを否定するのでしょうか。
確かに、物事を否定して考えるという姿勢はとても大切だと思います。それは、科学の基本的な考え方ですから。
でも、それは精神的には結構辛いものであると思います。

 

自分の中では、楽観的に状況を見れるときと、ものすごく悲観的な観測しかできないことがあります。

悲観的な観測をすると、結局たとえ治療を始められたとしても、学校で私として生活するのはものすごく難しいのだろう、そして治療だって無理だし、母親はどうやら積極的には理解してくれないようだ、はぁ…。という考え。

楽観的な予想では、大人はどうであれ、きっとみんなは受け入れてくれるだろうし、結局変わり始めれば、すべてが進んでいくのだから、今はそういう過渡期なだけで、すぐに何か良いことがあるのだろう…。

いや、なんか結局両方とも悲観的ですね。

 

そもそもの問題として、私の母親が、私のことをどうも理解「したくない」ようなのです。
いや、そんなことを言ったらいけない、こうやって今まで生きていられるのだって、母親のおかげなのだし、一応家の中で着る服などは買ってきてもらえたのだから…。
しかし、それよりも、日常の生活の中で交わされる会話の節々で、どうしても私を「男」として見ているように感じられるのです。意図的に。

それが、ものすごく嫌だ。
まあ、もはや最近はあまり会話すらしていないのですが(それが問題なのだろうか)。

最近は少し改善しているように感じていますけれどね…どうなんでしょう。
やっぱり、母親としては、嫌なんでしょうね。嫌でしょうね。はぁ。
(今ここで、ありとあらゆる私のことを否定するような言葉が頭の中をよぎった。)

 

えっと…話をある程度戻して、学校での生活に戻ると。
いや、その前に、なぜ私がそんなに学校での生活に固執しているのか(いや、自分では固執しているなんて感じていないのですが、そう感じられるかもしれないので)。
それは、まああたりまえのことではありますが、毎日の生活の大部分が学校に行っている時間であって、自分は学校のことが好きだし、それ以前に、学校というのは、性別の差がかなり明確にあって(それでもまあ、制服と一部の授業くらいのものですが)、さらに、その場が社会の縮図であるということだからでしょうか。
(こんなことを考えているから、「アスペルガー症候群」だなんて言われてしまうのだろうか、あるいは実際にそうなのだろうか。)

そう考えていると、ふと、将来一体どうすればよいのだろう、ということが頭をよぎります。
自分は結局、社会では生きて行きづらい人間なんだ、と考えると、なぜそんなこと考えなければいけないのだろう、と考えてしまいますが。
私は、将来は研究職かコンピューター関係の仕事に就きたいと考えている(こんなことを考えているから…前の括弧に同じ)のですが、まあそれはいいとして。
なぜそんなに将来のことを考えなければいけないのでしょうか。
普通のみんなは、そんなに遠くのことを考えているのでしょうか。
私は、将来のことよりも、今がほしい。今、この瞬間、過ぎ去っていく時間が、「私」としてではなく、「僕」として流れていくことが、とても嫌で無駄であると感じています。
無駄なんかではないと分かっているけれど、こんな風に悩んでいるからこそ、得たものもあるけれど、それが「私」になったら失われてしまうのではないかと不安になることもあるけれど、でも、もうこんなただ流れる毎日は要らない、私は、私として、普通に生きたかった。せめて、それに重なることはできなくても、漸近させてほしい。今からでも。

そう誰かに伝えたくても、みんな忙しくて伝えられない。
私のことを打ち明けた友達にだって。
もしかして、それが一番辛いのかもしれない。
いや、もう聞き飽きたのかな。いつまでも変われない私に。

おやすみなさい…いや、おはようございます、ですね。
では。