Life as Kamino Rui

MtFの私「神野留衣」と、私の現実世界での姿「僕」の二人の日常生活

ヒトはなぜ生きているのだろう

ずっと、考えていること。
暇さえあれば、いつも考えていること。
そして、答えが出ないこと。
答えがある必要がないのかな。
答えがない、それこそが、生きている意味なのかもしれない。

ヒトは生きて、その時間を使って、一体何をしているのだろう。
私は今、高校生だ。
学生のするべきこと。それは、勉強。
でも、「学ぶ」ということには、二つの段階がある。
一つ目は、既知の事実を先人から受け継ぐということ。
そしてその後に、その事実から予測される「事実であるはずのこと」を導きだすということ。

でも、そんなことを考えて生きている人間がどれだけいるのだろうか。

そして、もう一つ。

私たちが使うことができる時間は、今のところ有限だ。
新たな事実がこの世界に増え、学ぶべき既知の事実が増えれば、その既知の事実を学ぶために使う必要のある時間は増えるだろう。

そうしたら、やがてヒトは、先人の遺したものを受け継ぐだけで、その生命を使い果たしてしまうのではないだろうか。

…それを補うための方法が、コンピューターなのだと思うけれど。
 でも、それでさえいつかは足りなくなるだろう。

そもそも、この世界のすべてを理解してしまったら、一体私たちは何のために生きるのだろうか。
自分が生きていようがいまいが、何もかもが分かりきった世界。
そんな世界の、何が楽しいのだろう。

 

…なんて、分かりきっているかのように感じてしまう自分が、一番嫌だ。
自分が一番、何も分かっていないのだな、と思う。

他の人から自分がどう見られているのか、気にして生きているのは、なぜだろう。
そんなもの、気にしなければ良いのに。

もし、他人からどう思われるのかを完全に気にする必要がなくて、しかも自分が自分のことについて考えようと思わなければ、「性同一性障害」という問題に悩まされることもないと思う。

でも、実際は違う。

…どう違うのだろう。

純粋に論理だけ考えれば、性別なんてどうでもいいのかもしれない。
だって、身体の性別はただのイレモノであって、心の性別なんて、曖昧なもので、分けることができないから。

…間違った先入観を持ってほしくないから、ということなのかもしれない。
ヒトはどうしても、相手のことを見た目で判断してしまう。
そして、殊に性別については、判断に強い影響を与えているのだと思う。

たとえば、服装が乱雑できちんとした人間に見えなくても、その人が丁寧な口調や行動をしていれば、周囲の人々は、その人が本当はどういう人なのか、先入観を上書きして判断することができる。

でも、なぜか性別についてはそうじゃない。

いくら女性っぽい行動をしていたとしても、服装や身体が男であるというだけで、周囲の人々の意識の中には「女っぽい男」というイメージしか浮かばない。
なぜだろう。

逆もまた然り。
どんなに男勝りでかっこいい人がいても、その人の服装や身体が女であるというだけで、周囲の人々の意識の中には「男っぽい女」というイメージしか浮かばない。

そのイメージを書き換えるのは、とても大変なことだ。
言葉だけで伝えようとする場合は特に。
 

いつも、ことあるごとに考えてしまう。
どうして、自分は生まれた時から、「本当の自分」として生きて来れなかったのだろう、と。
そんなことを考えても、何の意味もないのに。

今まで生きてきた自分だって、自分であることに変わりはない。
でも、なぜかは分からないけれど、それは本当の自分ではない、と感じてしまうだけ。

 

そんなつまらないことで、いつも私は時間を浪費してしまう。
つまらないことだと分かっているのに、それ以外のことをすることができない。 
…そんなことを言ってしまったら、ただの言い訳なのかな。

明日からは期末考査だというのに。何もしていない自分。
何かしたいのに。勉強したいのに。

高校は、義務教育ではない。
成績が悪ければ、容赦なく落とされる。

どうすればいいのかな。
もっと自分が強くなれば良いのかな。
生きるために、とりあえず何かしなくちゃ。 

 

今の私が生きている理由は、自分の思いをこの世界に遺すためだと思った。
普通のみんなのように、「私の生物学的コピーに近いもの」を遺すことはできないから。

と、眠い中で考えた神野留衣でした。