抽象的に考えられるということ
お久しぶりです。数ヶ月ぶりですね…神野留衣です。
今まで書いてきた状況と比べて、最近になって様々なことが変わりました。
でも、そのすべてをここに記す必要もないだろうし、すべてを書き残すことはできないだろうと思います。
だから、これからは(今までもそうだったけれど、)思ったことを、書き連ねていこうと思います。
それがいつか、理解できる人の目に留まることを願って。
今回はタイトルのように、「抽象的に考える」ということについて考えたことを、話したいと思います。
私は、学問というのは、どれも身の回りの現実世界を抽象的に考えたものであると思います。
そして、学問を理解できる、つまり頭が良い人と一般的に言われる人というのは、抽象化して物事を考えることのできる人々であると思います。
そして、抽象化の究極の形態が、ロジック、つまり論理であると思います。
私は、「性同一性障害」というものを理解できる人は、抽象化という概念を深く理解できている人、つまり頭のいい人と重なるのではないか?と思いました。
性同一性障害というのは、心と身体が一致しない状態である、と一般には言われますが、果たしてその概念を理解できている人が、この世界にはどれほどいるのでしょうか。
私は、コンピューターがそれなりに得意で、プログラミングもよくします。
そのような話を、前に精神科の先生にしたところ、
「性同一性障害の人って、コンピューターに強い人が結構多いよ。」
と、言われたことがあります。
その言葉が事実かどうかはわかりませんが、私はその話を聞いて、納得できる点があると思いました。
なぜなら、コンピューターというものは、「抽象的に考える」ことで、成立しているものだからです。
人間にとっての身体は、コンピューターにとってのハードウエアであり、人間の心は、ソフトウエアであると私はよく説明します。
だからこそ、心と身体が一致しないという状態があり得るのだと、私は理解しています。
しかし、世の中には、コンピューターやプログラミングを理解できない人々が大勢います。
「お使いのコンピューターのOSは何ですか?」
「えっと…富士通です。」
そう答えてしまう人々の頭の中では、コンピューターというものが、この機械自体を指していると考えているのでしょう 。
しかし、本当はそうではない。
私たちがコンピューターとして利用しているものは、あくまでもコンピューターの上で走る論理、ロジックの固まりなのです。
それは、コンピューターという箱、イレモノには関係ありません。
イレモノが同じでも、違う論理かもしれない。
イレモノが違っても、同じ論理かもしれない。
それを理解できない人が、この世界には大勢います。
それはなぜか。
その仕組みによって恩恵を受けるために、その仕組み自体を理解する必要がないからです。
人間は、必要に迫られなければ何もしない。
いや、そんな人間は、もはや人間としては呼べないでしょう。
しかし、多くの部分では、必要のないことに対して人間は意欲を持てません。
それなのに、コンピューターの仕組みを理解していなくても、コンピューターというモノを使うことはできる。
本当に、それで良いのでしょうか?
私はそこでふと、こう考えました。
もしも、誰もがコンピューターにもっと詳しくなって、抽象的に物事を考えられるようになれば、性同一性障害は、もはや問題ではなくなるのではないか、ということを。
誰もがもっと、理解できるようになるのではないか、と。
しかし、今、この世界では、理解できない人が多くを占めているのでしょう。
その人々の考えを改めることは容易ではありません。
受け入れてもらわなくても、自分として生きなければならない。
それは、社会的に難しいことかもしれないけれど、でも、そうしなければ、生きていけない。
では、理解できない人に対して、どのように「自分」という存在を納得させるのか。
…難しいですね。
でも、自分が自分らしく生きれば、周囲も理解せざるを得ないのではないか。
というか、何を恐れる必要があるんだろう。
だって、それこそが自分なのだから。
と、人工知能をつくりながら考えていた神野留衣でした。